道重が売れていることについて

2010年1月1日金曜日 ·

Check
「もはや理由のわからないくらい道重が売れていることについて」とかそんな標題のスレにおいて、おれは道重が実質的にモー娘抜きに活躍していることを踏まえたうえで、
モー娘の存在位置について述べた。存在位置というは観念論チックな述語、というかハイデガー語で「対象がそれとして理解されるときの関係の布置」くらいに考えてもらったらいい。
この「関係の布置」というこれまた観念論的でヘーゲル的なやり口が大切だ。ハンマーを例に挙げるなら、まず「大工仕事」がこれとして例示できるだろう。
だがある人にとっては人を殴るためのものでありうるし、その場合は「人殺し」が関係の布置になる。販売員にとっては道具ですらないかもしれない。
関係の布置とはつまり、われわれがある対象を認識、いやもっとこのやり口に相応しい言葉言おう、意志するときのフレーミング(投企)において、対象以外のものである存在者の全関係性のことだ。
また、関係の布置はわれわれの意志次第で変化しうるものだ。上の「大工仕事」は「釘打ち」と精確化できる。「大工仕事」にはペンキやらコンクリートやらの存在者が要素として組み入れられているが、
「釘打ち」には入ってこないんじゃないか。人によっては違うのかもしれないけど。
そして、もし厭わしい哲学談義を避けたいのならば、この「関係の布置」は頑健な仮定のもとで正当化されなくてはならない。なぜなら、人によっては「ハンマー」をペンキやコンクリートといったなんら「釘打ち」と関係の無いところから語ろうとする。
いや、たしかに「釘打ち」は日曜大工のお父さんからすれば「ペンキ塗り」と関係する概念であるし、
人殺しは殴打の後に「コンクリート固め」をしようとしているのかもしれない。しかしそれを言い出したら世の中の事柄は全て、冗長性を排してまったく緊密に繋がっているのではないかという決定論まで突き進んでしまうし、
突き進まないのならばやはりどこかで人は「関係の布置」の流れだすような動きにある一定の境域で堰を打っていることになる。ある境域で堰を打つことがなんらかの仕方で正当化されねばならず、
だから「本質論」の際に関係の布置は頑健な仮定を必要とするわけだ。われわれがハンマーの本質をその道具デアルコト性のうちから語るならば、堰は「釘打ち」に打たれなければならない。


Related Post:


0 コメント:

現在の閲覧数 
モッピー | お金がたまるポイントサイト

About

このエントリをつぶやく
相互リンクについて
↑お気に入りに登録をお願いします
当サイトはリンクフリーです
人気ブログランキングへにほんブログ村 ネットブログへ
【↓1000文字まで】
Powered by NINJA TOOLS

過去 7 日間人気の投稿