それは何処かの誰かのお伽噺。 part3

2010年1月31日日曜日 ·

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それは何処かの誰かのお伽噺。
史学界で知られた話として、「紀元前500年の中断」というものがある。紀元前500年から400年までの約百年間にわたり、欧州、中国、アジア、中東といったいずれの地域においても歴史書が断絶しているのだ。世界的な異常気象によって混乱がもたらされていたと論じる者もおり、実際にそれについて記した碑文なども発見されている。
史料が乏しいこともあってこの学説は一般的ではないが、しかし昨今発達したDNA解析によれば、紀元前500年以前の「人類」と、紀元前400年以後の人類のDNAは、生物学的に全くの別種といっていいほど構造が違っているという。
果たしてその百年には何があり、そして今の人類はどこから来たのだろう?
それは何処かの誰かのお伽噺。
1977年、フランス北東部の町カリロフスで、二十歳以上の男女が大量に殺害されるという事件があった。百人近くの被害者たちは、白昼の街中で見るも無残な有様で殺害されたにも関わらず、しかし目撃者は皆無だった。
事件は結局、犯人と疑われた移民の男が取調中に病死したことで幕を閉じたが、1990年代にジャーナリストのゴラン氏が追跡調査を行っている。それによると容疑者は明らかに冤罪であり、街ぐるみで真相を闇に葬ったというのだ。
それを聞かされた知人は、何故そんな事が、と当然のようにゴラン氏に問うたが、彼は口を歪めてこう答えたという。「当時、町に在住していた小学生児童、約1300人。そのほぼ全員が殺害に加わっていたなんて、誰が公にできるというんだい?」
それは何処かの誰かのお伽噺。
医学用語で、癌は「悪性新生物」とも呼ばれる。文字通り悪性の細胞が体内で増殖することからつけられた呼び名だ。
だが、大病院の医師の間では、決して表に出されないエピソードがしばしば語られる。何千人何万人という癌患者の中で、時折、人類とはまったく別種の生物へと「変化」するケースがあるというのだ。
例えば1988年にドイツで死亡したカナリスという男性は、キリスト教国であったにも関わらず死後即座に火葬にされた。理由はとあるウィルスのキャリアであったからと説明されたが、ナースの一人は「まるで半魚人のような」カナリス氏の顔をたしかに見た、と後に証言している。
それは何処かの誰かのお伽噺。
旧ソ連が医学・科学の発展を急ぐあまり、人体実験まがいの試行錯誤を繰り返していたことはよく知られている。
その中でもとりわけ奇異なのが、在任中に急死したとある共産党指導者を蘇生させようとした事例だろう。
何としてでも蘇生させろと指示された医師たちは、腐敗の始まった遺体から頭を切り離し、頸部に無数の機械をつないで生き返らせることに成功したという。結果、生首だけで「生き返った」その指導者は、しかし半日後には舌を噛んで自殺したとされる。
なお、執刀に携わった医師たちは、それ以前の粛清によって家族を失った者ばかりで占められていたという。
それは何処かの誰かのお伽噺。
1917年、中国南東部の沿岸に巨大な海蛇らしき生物の遺骸が打ち上げられた。
それは全長五キロに及ぶ海岸いっぱいに広がるほどに長く、色は鮮やかな青緑に輝いていた。
現地の村人はこれぞ龍神として騒ぎ、祟りを恐れるがゆえに政府の調査団が到着する以前に総出で遺骸を海に流してしまった。
数人がひそかにその生物の鱗らしきものを採取しているが、大人の掌以上のサイズを持つそれを後日学者が分析したところ、哺乳生物の角質にひどく近いとする結果が出たという。
それは何処かの誰かのお伽噺。
真言宗の開祖である空海は、その生涯の最後において高野山奥の院の霊廟に籠り、入定した。以後、霊廟は閉ざされ、外部の者は誰一人として立ち入ることが許されていない。
1970年代の半ば頃、とある雑誌の記者がその霊廟を取材しようと強引に押し掛けた。
高野山の僧が頑なに立ち入りを拒もうとする中、記者はかなり暴力的に霊廟に入り込もうとしたのだが、そのとき、廟内から「静かに」とたしなめる声がたしかに聞こえたという。
件の記者は直後に事故死したが、その死はほとんど自殺に近いものだったと記録されている。
それは何処かの誰かのお伽噺。
かつてエジプトに存在したアレクサンドリア図書館は、世界中の書物が集った場所として史実に刻まれている。図書館はその後崩壊、ためこんだ書物も焼失・散逸しているが、1980年にエール大のリシェル博士が発掘調査によりそれらの蔵書の一部を発見した。
そのうちの一つは、現代においても解読不可能の文字で記されていたが、表題に記された象形文字が「世界」を意味しているらしいことはどうにか判明した。リシェル博士はその研究に熱中したが、どうにか解読できそうだ、と家族に漏らした翌日、謎の自殺を遂げる。
残された遺書には「世界の真の姿がわかってしまった。しかし私はそれに耐えられない」と記されていた。
それは何処かの誰かのお伽噺。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、その死因がはっきりしないことでも知られている。
落馬した怪我がもとで死亡したという説が有力だが、武家の棟梁としてはあまりに不可解な死に様といえよう。
だが、当時の頼朝の近習だったとされる榊原某なる御家人がこう日記に記していることは、あまり知られていない。
「夜半、鎌倉殿の寝所より大音声が轟いた。それは朗々たる鬨の声であり、矢羽が風を切る音であり、刃が打ち交わされる音であった」と日記は伝える。驚いた近習が駆けつけたとき、頼朝の遺体は無残に切り刻まれ、さらに海水につけたようにずぶ濡れであったという。
それは何処かの誰かのお伽噺。
1980年、某オカルト雑誌のライターであったN氏は、「悪霊に憑かれた少女」の噂を聞き、その取材を試みた。
青森在住というその少女の父親とコンタクトを取ったN氏は首尾よく少女本人と出会えたが、少女が至って朗らかで明るい普通の少女であり、語る内容も平凡であったことに拍子抜けした。
無駄骨であったかとN氏は帰京したが、取材内容をどうにか脚色して記事に仕立てている最中、奇怪な噂を同僚から聞かされる。
件の少女は半年前に事故死しており、精神を病んだ父親は日頃から娘が生きているかのような言動を取っているというのだ。
果たしてN氏は誰に出会い、誰に取材したというのか?
それは何処かの誰かのお伽噺。
十九世紀末頃、フランスの富豪リュトーシュ家の末娘が五歳にして病死した。家族はその死を悲しみ、少女が大事にしていたビスクドールを一緒に埋葬した。その後、フランスがナチスドイツに占領された頃。件のビスクドールがとある高名な職人の手になる美術品であることを知ったナチス高官の命令により墓が暴かれた。
十字を切りつつ棺を開けた兵士は仰天した。記録では三十センチ足らずとされたビスクドールは、発見時には一メートル以上の大きさで、棺の中で窮屈そうに膝を丸めており、そして小さな白骨体は所々が貪り食われたように欠けていたという。
それは何処かの誰かのお伽噺。
古代の貴人の陵墓には、粘土細工の人形が多数埋葬されていることがある。
これは当時の、死去した貴人のお伴として奴隷たちが生き埋めにされたという風習に代わるもの——つまり粘土の人形は生きた人間の代わりであるとする説があるが、しかし一部の史書に次のような記述があることは知られていない。
史書はこう伝える。永遠の旅路についた貴人の供となる者は、やはり永遠でなければならぬ。故に、粘土を溶かした湯を高温で沸騰させ、その中に生きた奴隷を投げいれて、骨も肉も土と一体化するまで煮詰めるべし、と。


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